「歌枕」と聞いて、「ああ、〇〇のことね」とすぐに思い浮かびますか?
恥ずかしながら、記者は歌枕とは何かをよく知りませんでした。
でも、「実は、自分も歌枕ってよく知らなくて……」と思う人は意外といるのではないでしょうか?
歌枕は、和歌の時代から育まれてきた日本らしい感性に基づくもの。
和歌のない現代に生きる人びとに、その「心の風景」を再共有する試みが東京都・六本木のサントリー美術館で始まりました。
さあ、“あなたの知らない”心の風景を見に行ってみませんか?
『歌枕 あなたの知らない心の風景』の概要
——どうしたらそこへ いけるのだろうか?
メインビジュアルに添えられたメッセージは、「歌枕」の意味を知れば深く頷けるはず。
切実さであり、詠嘆。憧憬。
英訳文の“Forgotten Poetic Vistas”は、日本語に直訳すれば「忘れ去られた詩的な遠景」。
展示室に足を踏み入れる前から、叙情的なノスタルジアの予感が漂います。
・歌枕ってそもそも何?詳しく知りたい!
・やまと絵や和歌の雅やかな世界を味わいたい!
・想像力を働かせながら、心が豊かになるような時間を過ごしたい!
音声ガイドは、声優・ナレーターの斉藤茂一さんによる落ち着いた解説。
(サントリー美術館の企画展では、斉藤さんが音声ガイドをしていることが多いのです!)
今回は展示の解説のみならず、館のコレクションや建築の紹介もしているので、お時間のある方はぜひゆっくり聞いてみましょう。
歌枕とは、古来より和歌に読み継がれてきた日本の名所のことです。
平安時代に成立した歌枕は、やがては屏風絵や絵巻物・工芸品などの題材となり、日本人が長く親しんできました。
たとえば、「吉野」と言えば「桜」。土地を代表するモチーフが決まっていたのです。
また、「川」と「紅葉」が描かれていたら「龍田川」というように、モチーフだけで土地を表すこともできました。
人びとは自らの思いを美しい風景に託し、「心の風景」としてきたのです。
第1展示室に入ると、パネルに囲まれた空間。
物語の世界へ「ようこそ」と迎え入れてくれるかのようで、世界観が巧みに作られています。
歌枕が何かを滔々と語りながらも、「けれども、それを現代人の私たちが共感するのは難しいことですよね。だから再共有を試みます。」とした切り口で展開するのは、やはり企画力に優れたサントリー美術館ならではのセンス。
一歩ずつ足を進めるごとに、とろけるほどに雅な世界を堪能できます。
歌枕は和歌に由来するもの。中でも『古今和歌集』の歌に詠まれた土地は、歌枕として広く定着していったそうです。
『古今和歌集』は勅撰集、つまり天皇の指令で作られた和歌集。数ある和歌集の中でも影響力が大きかったことがうかがえます。
古筆(こひつ)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて筆で書かれたもの。主に、かな書(ひらがなで書かれたもの)を指し、古人の筆跡がわかる貴重な品です。
展示の冒頭では主に古筆を鑑賞しながら、和歌と歌枕の関係性を深掘りしていきます。
そこで注目すべきは、日本人の圧倒的な言語感覚とセンス。
たとえば、「水車」「橋」がモチーフの「宇治(うじ)」は、「憂し(うし)」と掛け合わさって憂いのあるイメージが生まれたのだとか。
このように、「うし」という音に「宇治」と「憂し」の2つの意味を見出すのは、和歌の技法である掛詞(かけことば)に基づくものです。
あふことを 長柄の橋 の ながらへて 恋ひ渡る間に 年ぞへにける(『古今和歌集』826番より)
絶妙に韻を踏みながら心情を詠い上げるこのセンス。現代で言うラップにも近しい感性ですね。
このように芸術的な和歌からいかにして歌枕が生まれたのか、手に取るようにわかるのはきっとおもしろいはずです。
日本の名所絵は、実際の風景ではなく“歌枕を描いたもの”が始まりだと言われています。
古来の人は実際の風景よりも、“心の風景”を絵に託したのです。
実際にその土地を訪れていない人でも、「歌枕」を通して風景をイメージでき、作品として表現できました。
そうして描かれた絵を通して、誰でも土地のイメージを持てるようになります。
「居ながらにして名所を知る」とは、まさにことのこと。ステイホームしていても想像で旅ができたのです。
展示の後半では、「旅と歌枕」をテーマとして風景画を多く取り上げています。
風景と言えば歌川国芳! 《百人一首之内》シリーズでは、歌枕に取材した浮世絵を数多く描いています。
江戸時代に入ると、「古風な歌枕の世界に当世風の人を描く」といった、クロスオーバー的な作品も生まれるようになりました。
また、歌枕人気にあやかった作品として、狩野探雪《松川十二景和歌画帖》にもご注目。「歌枕がないなら作ってしまえ!そして新たな名所を作ろう!」と意気込んだ作品は美しさもさることながら、ギラギラのビジネスセンスで溢れているのがおもしろいところ。
《萩の玉川図》は葛飾北斎の作品。前回展とのささやかな繋がりを感じますね。
“生活の中の美”をテーマとするサントリー美術館らしさも感じる第五章は、手箱や硯箱、茶道具など暮らしに根付く品々を展示しています。
先ほどご紹介した「長柄橋」も、《長柄橋蒔絵硯箱》や《長柄文台》のような「長柄橋」グッズになっています。船の形をした水滴(すいてき)が愛らしい道具です。
他にも、思わず笑ってしまうような香炉や、何に使っていたのかよくわからないタイルを見られます。雅の中にもユーモアが感じられるのは、人びとの豊かな心の表れのようにも感じられますね。
作品に取り入れられたモチーフを見て、「これは何の歌枕かな?」と当てるのも楽しそう。
『さつまがゆく』の展覧会レポートでは会場の様子を伝えつつ、現地で楽しんでほしいという思いから、重大なネタバレを避けながら見どころをご紹介してます。
今回、どうしても生で見てほしいのは展示室の最後にある作品。
胸打たれてほしい。
以下のレポートは、展示の観賞後にご覧になることを推奨します。
第3展示室、最終章。
ふと見上げると、壁に丸いスポットライトが当たっている。
「何だろう、あれ。お月様かな」
そう思いながら近づいてみて、私はハッとする。
最後の空間に飾られていた、5枚の小さなお皿。
《吸坂焼武蔵野皿》はその名の通り「武蔵野」を表す「薄野原」と「月」がモチーフだけれど、デザインは極限まで抽象化されている。「薄野原」は茶色とブルーのツートンカラーで表され、月はただの白い丸。
思わず展示室内を見渡すと、その空間だけ周囲に同じカラーの布が貼られている。壁に映された白い月とともに、このエリアだけは“心の風景”を具現化した場所と化していたのだ。
和歌や古典が生活の中に根付いていない、現代の私たち。
美しい“心の風景”を目にしても、こんなふうにただの点と線と色にしか見えない。
嘆き。もはや私たちに、歌枕への共感は残されていないのか。
伝統を失った現代の私たちは、どうしたらいい?
このまま歌枕は過去のものとして、忘れ去られてしまうのか。
——あるいは、未来への希望と可能性かもしれない。
古典的な「歌枕」でもこれほどモダンなデザインに昇華でき、私たちの目を楽しませてくれる。
歌枕の精神を、これからの時代にも語り継いでいく術はきっとある。そう信じられる。
ただの古典的な展覧会だと思って見ていると、最後に心を刺される。
抽象化された空間で投げかけられる、哲学的な問い。
「歌枕の再共有」を実験し、辿り着いた答えがその場に表されていたように感じた。
-END-
ミュージアムショップでは、今回展にちなんで京都のお菓子も販売しています。
図録は厚みがあってボリューミー。充実した内容は、歌枕についてさらに深く知りたい人にはおすすめです。
併設されている「カフェ 加賀麩不室屋」では、夏季限定のスイーツも。
トロピカルな色合いの「能登塩パフェ」が食べられるのは今だけ、美術館を訪れたらぜひ足を運んでみましょう。
今回展のメインターゲットは、和歌を知らない現代の人びと。
シックな展覧会はえてして美術好き・古典好きが多く訪れますが、「和歌を知らない人にこそ見てほしい」という静かな熱意を感じられました。
夏の展覧会、というとファミリー層や中高生をターゲットにした楽しげな展示が人気を博す中、しっとりとしたエモーショナルな方向に振り切ったのは見事。
儚げな夏の終わりが何よりも似合いそうな企画展。
会期は8月28日(日)まで、終わりゆく夏の感傷に浸りながら展示を見るのも良いかもしれません。
会期 | 2022年6月29日(水)~8月28日(日) |
住所 | 〒107-8643 東京都港区赤坂9丁目7−4 東京ミッドタウン ガレリア 3階 |
時間 | 10:00~18:00(金・土は10:00~20:00) ※7月17日(日)、8月10日(水)は20時まで開館 |
休館日 | 火曜日 ※8月23日は18時まで開館 |
観覧料 | 一般:当日 ¥1,500|前売 ¥1,300 大学・高校生:当日 ¥1,000|前売 ¥800 ※中学生以下無料 ※障害者手帳をお持ちの方は、ご本人と介護の方1名様のみ無料 |
TEL | 03-3479-8600 |
URL | サントリー美術館|http://www.suntory.co.jp/sma/ |
交通案内 | https://www.suntory.co.jp/sma/map/ |
おまけ
今回、筆者が最も気に入った歌枕は「須磨」。月の美しい須磨に行ってみたいものです。